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五つの傷が癒えるまで~Root's side-2~
湿気た空気の漂う蒸し暑い階段を、1人で上る。
階段のあちこちに、ちらほらと花束が置いてあるのが見える。
1番上まで上ると、薄っぺらい鉄扉の前に花や色紙、手紙や供え物が沢山並んでいた。
もう十年も経つのにな。
立て掛けられた花束や色紙を倒さないように注意しながら、先に受け取っておいた鍵を使って扉を開け、屋上に出る。
夜明け前の屋上はガランとして、当たり前だけれど誰も居なかった。
タッツンはあの日、どの辺りに居たんだろうか。
詳しい事は分からない。とりあえず広い屋上の端まで歩いてみる事にした。
真ん中辺りにある、ぼんやり灯る頼りない外灯の下まで歩くと、持って来た大きな3つの白い花束をよいしょと抱え直す。
今日はこの後、ユータとキノの所にも行ってみるつもりなのだ。
あれから十年。俺もようやく、ここまで足を運ぶ事ができた。
誰が居なくなった事も理解できず、受け入れる事もできないまま、ずっと決心がつかずに先延ばしにしているうちに十年もの月日が過ぎてしまっていた。
元々ソロアーティストとして再デビューするにあたり、他の事務所、メーカーに移籍する話を水面下で進めていた。けれど皮肉な事にメンバー全員が居なくなってしまった為に現事務所は俺の個人事務所と化し、メーカーにもそれなりの無理が言えるようになったおかげで、結局今もそのまま居残る格好に落ち着いている。
ユータが主催していたイベントは遺志を継いだギタリスト達によって数年後には復活し、観客参加型はそのままに、今では著名な大御所アーティストから売り出し前のインディーズアーティストまで、様々なギタリストが多数出演する大型フェスに成長している。ユータが聞いたら喜ぶだろうな。
あの山は近年宅地開発されて、キノが目指していたはずの山頂部には大きな展望台ができ、星が降る恋人達のデートスポットとして人気なのだそうだ。恋人達のデートスポットか。キノ、拗ねるなよ。
そしてこのビルにあった、タッツンが使っていたらしいスタジオは暫く前になくなり、代わりにカラオケ店や居酒屋が幾つもできている。俺がエドワードさんと来たフランス料理店がどうなっているのかは、よく分からない。
最近になってまた楽器人口が増えているとはいえ、バンドマンを取り巻く環境など大して良くなったりはしないものだ。
音の良いスタジオ、時間の融通が利くスタジオ、良心的な料金のスタジオ、設備の良いスタジオ。
相変わらず毎日争奪戦になっているんだろう。
とてもじゃないけど、音楽やバンドなんて人には薦められないな。
あの後ジャンクの音楽性は再評価され、アルバムやシングルまで売上チャートにどんどんランクインし、過去に出演したテレビ番組や雑誌では追悼特集が組まれ、地方のライブハウスやCD店で専用コーナーが設けられたりもした。
俺に取材の依頼なども来ていたが、全て断った。
自分のソロ活動についてのプロモーション等は勿論こなしていた。
だけどジャンクについては結局、何も話さないままここまで来ている。
今更たった1人になった俺に、何をどう言えって言うんだよ。
苦々しい思いで外灯から離れてまた歩き出し、シュウの分はどうしようかな、と考える。
シュウの花束は事務所に置いてある。
この時期、事務所宛てに沢山のお供えや手紙が届くのも毎年の事だ。
それらと一緒に自宅に送ろうか、それとも花だけ先に送った方がいいのかな。
考えながら屋上の端、薄暗い灯りに照らされた鉄柵の前まで歩いた、その時。
急に真後ろから、本当に突然、すぐそこに居るかのような音圧で4つの楽器の音が鳴り響いて、驚いた俺は思わずわっと叫んで耳を塞ごうとしてしまった。
最初は本当に誰かが近所で演奏始めたか、自分の耳がおかしくなったのかと思ったんだ。
ドラムにベースが乗り、ギターに続いてキーボードの音が聞こえる。
聞いた事のないインストの曲。けれど、誰が演奏しているのかは、本当は考えなくても既に分かっていた。
だけど、まさか、ありえない。
そんなはずはない。そうだきっと、早起きしすぎたせいで寝惚けてるんだよ。
恐る恐る振り返って見えたのは、かつての戦友。
俺の宝物だった、4人の姿だった。
■
五つの傷が癒えるまで~Root's side-1~
シュウとユータの訃報を聞き、信じられない思いのまま俺が帰国した頃には、葬儀も終わり周囲も落ち着きを取り戻し始めていた。
その夜は尊敬する先輩バンドのヴォーカリスト、エドワードさんと約束があった。
盟友を相次いで失った俺の為にと、エドワードさんが一席設けてくれたのだ。
場所は郊外の雑居ビル。セキュリティの厳しい上層階のエレベーターを何度も乗り換えて、エドワードさんと一緒に来ていたマネージャーの方に扉の暗証番号を押して貰い、会員制のフランス料理店に入った。
その日はエドワードさんと俺と、顔見知りのマネージャーさんのみ。
後で迎えをよこす、と言って彼が出て行った後は、俺とエドワードさんだけになった。静かに話ができるように、というエドワードさんの心遣いが、俺にはありがたかった。
2時間程の時間を過ごした後、迎えに現れた別のスタッフの方にカードをかざして貰い、一緒にエレベーターを乗り換えた、その時。
ふと、階段を上る男の後ろ姿が目に入った。
カードを持っていないから階段を上っているのだろうが、その背中に、見覚えがあった。
『どうしたの?』
ドアの外を凝視したままの俺に気が付いて、エドワードさんがたずねてくれた。
『いいえ、何でも』
そう返事はしたけれど。見間違い?いや、でも。
何もないふりでそのまま下まで降りて、エドワードさんと一緒に車に乗り込んだけれど。
さっきの背中は、タッツンじゃなかったか。
俺はルート。元々はバンドでデビューして、最近までソロで歌っていた。
バンド名は『ジャンク』と言った。もう十年以上前に活動を休止し、実質解散状態だったジャンクはその後タッツンの脱退を機に正式に解散し、今の俺は名実共にソロアーティストだ。タッツンはバンド時代、一緒にやっていたベーシストだった。
ジャンクはそもそも友人同士が集まったバンドで、タッツンと俺も小学校の頃からの友達だったが、今のタッツンが何をしているのかはよく知らない。
わざわざ知りたいとも思わない。なのに、エドワードさんと別れて帰ってからもなぜかさっきの後ろ姿が気になって仕方ない。
連絡、してみようか。用事なら幾らでもある。
シュウやユータの事も1度ぐらいは話した方がいいんだろう、でも。
もう放っておいてもいいんだろうか。
仕事上の知り合い程度ならこんなに迷わない。
ジャンクは俺の中では、とっくの昔に無くなっていた。
お気楽にあいつらが、ソロを頑張ればジャンクに戻れると勝手に思っただけ。
俺はジャンクには戻れないし、戻りたくもない。
そう思ったからこそのソロだったはず。
それならば、何も言う事はない。
俺は結局いつもと同じ答えを出して、それで終わりにした。
キノが車の事故で帰らぬ人となったのはその翌日の深夜、タッツンが変わり果てた姿であのビルの屋上から発見されたのはそれから数日後だった。
タッツンの遺体は、それはひどい有様だったらしい。
バカ。本気でバカだ。普段あんなにカッコつけのくせに。
死亡時はいわゆる過剰摂取の状態にあったらしく、死因は薬物中毒と推定されている。
薬物、と一括りにされたって、何の薬かも分からないらしいのに。
ネット上では今もタッツンの交友関係が取り沙汰され、連日にぎわっている。
タッツンの死亡推定時刻はキノの前日の夜、とされた。
前日の夜。俺がエドワードさんと食事に行ったあの日。
やっぱり、あの背中は。あの時一言でも声を掛けていれば。
その場では無理でも、もし帰ってすぐ連絡していたら。
それも無理だったとしても、着信1件でも残していれば。
考えたって今更どうしようもない。連絡しなかったのは自分の意思だったんだから。
いつかこんな日が来る事ぐらい、分かっていたはずだった。
キノは普段乗りなれない車に乗って、星でも見に行こうとしていたんだろうか。
後部座席からは愛用のキーボードと、双眼鏡やカメラが発見されていた。
何かにぶつかったような跡もなく、誤って自分から斜面を落ちてしまったらしい。
プレーヤーにジャンクのCDを残したまま。
キノ、怖かった、かな。頭がうまく働かない。
よく分からない。本当に、タッツンもキノも居なくなってしまったんだろうか。
シュウも、ユータも。どうなってるんだ、本当に。
よく分からない。理解ができない。涙も出ない。
そう、涙も出ないんだ。誰とも随分連絡は取っていなかった。
だけどもう本当に、誰とも連絡も取れないんだろうか。
俺の活動を支えてくれるスタッフやレコーディングやライブに関わる人達の数は、バンドの頃より増えていたくらいだ。ファンだって、前より多い。
それは自分が望んだ事だった。後悔なんてする訳なかった。
ジャンクでいるよりも、1人でいる事を選んだのは俺だった。
ジャンクに戻るつもりもなかった。俺にとっては休止の時点で、既にジャンクは解散していたんだ。
だけど。とうとう俺は本当の意味で1人になってしまった。
バンドの解散後もそれぞれを形式上マネジメントしていた事務所のホームページには、解散の時と同じように通り一遍の悲しいお知らせが載り、各方面からお悔やみの連絡が続々届き、花やお供えも山程届いたそうだ。
ご遠慮下さい、としてあったのにタッツンに宛てた物もそれなりにあったらしい。
バンド名義の著作権がどうだの当時のアーティスト契約が何だのと、俺にも事務所からメールが来たり書類が届いたりもしたけれど、見る気にもなれなかった。
俺はまだ、分からない。
悲しくないはずはない。だけどまだ、信じられない。
こうして日々を過ごすうち、落ち着いた頃に急に悲しくなったりするだろうか。
それとも全て過去の事として、何もなかったように忘れていくんだろうか。
バンドはとっくになくなっていた、だけど。
友達、だったのに。俺は今もまだ、分からない。
■
五つの傷が癒えるまで~Kazuya's side-8~
『俺は、どうしようかな。でも2人、待つんやん?』
シュウがユータとキノを見て笑う。
『やったら、とりあえずで悪いけど、俺も一緒に居ってもええかな。先々どうするかは、また考えて』
『よっしゃ、決定な』
『先々も決定な』
『ん?』
なんだか話が纏まったらしい3人が、揃ってこちらを振り向く。
『さ、後はタッツンだけやで』
おかしそうにキノが言う。
『簡単に待つとか言うなよ、もう一体どんだけ待ったねん。それで上手くいく訳なかったから俺は辞めたんやろ。待ってた所でルートがどう言うかも分からんのに』
『でも、またやりたいんやん?』
『俺はルート居なくても、タッツン居てくれたらそれでええわあ』
『どの口が言うねん』
『別に考えたらルートが来るまで待ちながら、一緒に練習したりとか?いやでも先にどっか個人で練習したいかな』
『もう練習の話って』
『4日叩かへんかったらなまってしまうからなあ、今既に元に戻すの大変なレベルやで』
『なあ、ほんまに待つの?』
『俺は、積極的な感じで待っとく。練習もするし曲も作るし、できるんなら他の人とセッション的な事も色々こなして。何かとできる事増やしながら待っとくで』
『積極的に待つ、か。それもええかな。いざとなったら他行けるし』
『もう、なんで他行くの。俺は元々曲は作り貯めてあるし、もっと歌もの増やしたりジャズっぽいインスト増やすとか。誰かに歌って貰うでもいいし、またユータといかにもプログレっぽいもの考えてもいいし』
3人は3様に、それなりに道筋を見つけつつあるようだ。
結局、音楽バカな3人。もう誰に聞いて貰える訳でもないのに、それでも考えるのは音楽の事、楽器の事、バンドの事。
まずそれがなければ、他にやる事など思い付く事さえできない人間達。
何の邪気もない、儲けも損得も簡単に跳び越してしまう、そのまんまのバカ正直。
どうしてこの3人と俺なんかが、一緒に居られたんだろうな。
わざわざ人に意見するような事もなければ、争ってまで自分を認めさせようとする事もなかった。
物足りない存在だったのだろうが、それでもこの3人があのジャンクを支えていたんだよ。
『ほんま自分らお人好し過ぎるわ。よくそんなので生きて来られたもんやな』
『結局寿命なんかほぼみんな一緒やったやん』
『タッツンみたいに悪どい事せんかったって、別になあ』
『悪どいて』
『まあでも、タッツンは実際恨み買い過ぎてるからな』
ユータは時計に目を落とし、顔をしかめている。
シュウは伏し目がちに目をしばたかせて。
『俺らもう、行かなあかんし』
『うん』
ユータも頷いて。
『じゃあ、またなあ、タッツン』
『うん』
キノはよく分かっていないようだ。不思議そうにシュウとユータを見比べている。
『多分俺、タッツンの事も待ってるわ』
シュウが言ってくれた。
『うん』
『忘れんと帰って来てな、タッツン』
多分ユータは分かっていて、こう言ってくれているのだろう。
『うん』
キノは息を飲み、
『嘘やん。何でなん?嘘やんな?』
ようやく気が付いたようだ。
『うん。俺は、無理やねん』
そう、俺は無理なのだ。みんなと同じ世界には行けない。
あまりにも、沢山の人を傷付け過ぎてしまった。
キノは元々優しい性格で、周囲に害を為すような事はしなかった。
シュウだって最後まで病気と闘おうとしていたし、ユータに至っては(相手方が喜んでいるかどうかはともかく)人助けの為に命を落としているのだ。
そんな3人とおもらし反吐まみれ死体の俺が、同じ道を歩ける訳がない。
やっぱり泣き出したキノも、シュウとユータに促され、連れられていく。
ここからは本当に、俺は1人だ。これで当然。
元々一緒に居られるはずはなかったのかも知れない。
いくら待ってくれたって、辿り着ける事はないのだろう。
けれど、3人が一緒に居るのなら。きっと、悪くはない。
目指す場所が同じなら。道行きが違っても、向かう所が同じなら。
どこかで偶然揃ったパズルの4ピースを、見掛ける事だってあるかも知れない。
それだけでも、悪くはない。振り返っても、もう3人は見えない。
3人からは俺が見えているのかな?それももう、分からないけれど。
どれだけ離れても、それこそ耳をふさごうが。
俺が焦がれてやまなかった、4人の音にまたどこかで出会えるように。
それを頼りにここからは、1人で歩こう。
俺だって、もうそろそろ。悪い夢から目覚めなければ。
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五つの傷が癒えるまで~Kazuya's side-7~
『4人揃ってこっち来てしまって、みんな悲しむかな』
『ま、俺らはお互い悲しまへんで済むけどな』
『後処理的な事、やっぱり大変やろうか』
『そういえば俺どうなったんやろ。誰か見つけてくれたかな』
『タッツン、スタジオで練習してたん?ベースの?』
『うん、まあ、ちょっとだけ』
話しながら歩いて、それでも誰も切り出さない。
仕方ないのかも知れない、と思う。基本生きている時と大差ない。
でも、はっきりと誰もが思っていた。
たとえもうジャンクがなかったとしても。
誰も言い出さない事が、かえってそれを印象付けていた。
なら、俺が言うしかないんだろう。
『ルート、どうしてるんかな』
全員が立ち止まり、黙り込む。俺達のヴォーカルであり、リーダーでもあったルート。
大切な友でありながら、俺が傷つけてしまったルート。
俺達に失望し、1人ソロを選び、戻る事のないまま活動を停止したルート。
『ちょっと遅かった、よな』
シュウが静かな声で言う。ユータは目線を下げて俯いてしまった。
キノはまた泣き出しそうな顔をしている。
『俺はそれでも、また一緒にやりたかったな』
自分で言ったその言葉に、自分でも胸を押し潰されそうな感覚になる。
俺はルートと、みんなと、やっぱりジャンクがやりたかったんだ。
自分から脱退してさえ、それでも。ジャンクの自分はたったの5分の1で、パズルの1ピースでしかない事すらも、俺にとっては揺るぎない心の支えだった。
もう無理なんだ、他の道を探さなければならない、ずっと待っていたって何も解決しない。それが分かっていても。それぞれが悩み後悔し、心に傷を抱えたままで何年経っても先に進めなかったり、がむしゃらに行動を起こした所でやっぱり進んでいる気がしなかったり。そもそもソロ活動なんて、ジャンクがあるからこそ成立する物だったのに。
長い沈黙の後。口火を切ったのはユータだった。
『待ってみようかな、俺』
キノが驚いたようにユータを見る。
『あんまり変わらへんやん、前と。これからどれぐらい大変か分からへんけど、前かって大変な事いっぱいあったんやし。それやったら、なあ?』
ユータが確認するように俺達を見回す。
『俺は、待ってたい』
真剣な顔つきでそう言ったキノは、もう泣いていない。
『シュウちゃんは、どうすんの?』
シュウは本当は、どう思っていたんだろうか。
きっと理解はしていても、納得はしていなかったはず。
ルートを待ってる、なんて単純に言ったって、いつになるかも分からない。
待っていてまた会えるかどうかも、定かではない。
みんなが自分を待っていた事を後からルートが知ったとして、結果は前と同じかも知れないのに。
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五つの傷が癒えるまで~Kazuya's side-6~
『なあ、どこまで行くん?』
『多分もうちょい』
『多分てそれ何なん、どこ行くん?』
誰も通らない夜の山道。おばけでも出そうだな、と自分を棚に上げながら歩いていると、後ろからかすかにジャンクの曲が聞こえる。下から上って来る1台の車。ジャンクを聞いてくれているようだ。
車はどんどん近付いて来て、当たり前だけれど俺達に気付かずに通り過ぎていく。
けれど。
『あれ、キノやん?』
運転席に乗っているのは確かにキノに見えた。
こんな時間に、こんな所で?車は俺達を追い越し、そのまま走り去ろうとする。
でも、そこはカーブ…と思った瞬間、車はブレーキ音を響かせながら道を外れ、崖から落ちていく。
ドーン、と何かがぶつかる音が響く。
『うわ、ちょっと待て』
思わず叫んで走り上からのぞくと、剥き出しの山肌に車体が横向きに落ちている。
夢中で斜面を滑り下り、車に走り寄る。
『キノ!』
やっぱりキノだ。エアバックの上に挟まれるような格好のキノ。
頭や口から血が出ている。まさかさっきのドーンという音、キノの頭がぶつかった音なのか?
『キノ!キノ!』
当たり前だが呼び掛けても届かない。
ようやく斜面を伝いながら下りて来るシュウとユータに向かって走りながら、手を振って叫ぶ。
『あかん、救急車や!キノが…』
言いかけて。そういえば俺達救急車なんか呼べるのか?
下りて来たユータは時計を見ながら何か考えている。
シュウは何か言いたそうにこっちを見ている。
何やってるんだよ、と思った時。後ろでパタン、ドンッと車のドアが開閉する音が聞こえた。
ドアが開いて閉まった?振り返ると呆然とした様子のキノ。
どこからも血なんて出ていない。その向こうには車の中で倒れたままの、キノの丸っこい横顔が見える。
キノはそのままふらふらとした足取りで歩いて来ると、
『え、何で2人居るん?え、タッツン何で居るん?え、どうなってんの?大丈夫なん?』
『…いや、自分がやろ』
ユータとシュウに続いて俺もこの世を去っていた事を知ったキノはそれなりに悲しんではくれたが、自分までもがこちらの仲間入りをしてしまった事についての動揺は普通ではなく、無理に車の中の自分を引っ張ろうとしたり(俺もやったけど)、自分の体に戻ろうと何度も自分に向かってダイブしたり(その発想はなかったな)、後部座席に積んだキーボードを今更取り出そうとしたり(さすがキノ、ミュージシャンやで)。
どれもできないと分かると真っ暗な中うなだれて座り込み、そのうちしくしくと泣き始め、周りにいた俺達を大いにあたふたさせたのだった。
『な、キノ、大丈夫やって。』
『ぐすっ…何が大丈夫やねん』
『だって、みんな居るし』
『みんな、こんなになってしまったんや…ひっく』
『そりゃまあ、そうやけど』
『俺、こんな事になる予定やなかったもん』
『俺だってやわ』
『俺もやで』
『俺もやわ』
『冷蔵庫の中身だってまだ一杯残ってんのに』
『冷蔵庫の中身…』
『心配するとこ、そこなん』
『俺は食べ物を愛してるんや、食材無駄にするとかありえへんわ』
『そのエコ意識、素晴らしいけど…』
『エコじゃないで、材料買い溜めすると電気代かかるし、結局食べ切れへんかったりするから、最終的にはエコじゃなくなるねんて』
『言われてみればそうやなあ』
『…ぐすっ…ふえーん』
『お、おおう』
言葉を無くして空を見上げると。
『うわ、キレイやな。空、ほら星がすごいでキノ』
本当に、空は満天の星空だった。昨日ビルの屋上から見た曇った空と同じだなんて、信じられない。
『うわー、すごいな』
『ほんま、キレイやなー』
星空のおかげで少し落ち着いたキノがぽつりぽつりと話し始めた所によると。
シュウとユータが居なくなった後、キノは何も手につかず、心配した周囲から連絡を貰っても返事もできない状態が続いていたのだそうで。
こんな事ではいけないと無理に自分を奮い立たせ、相棒の作曲機材を抱えて、知る人ぞ知る星空スポットに向かっていた所だったのだそうだ。気分を変えて外で1曲作ろうとしていたらしい。無理な事するからだよ。
キノに限った事ではないが、ジャンクのメンバーはどこか変に真面目な所があって、無理に何かできなければいけないと勝手に自分を追い込んでしまうような事が割とよくあった。もういい歳なのに、幾つになっても変わらないんだな。
空が少しづつ明るくなって来る。犬の散歩に来たらしい老人がキノを見つけ、驚きながらも警察を呼んでくれて。その様子を見ながらキノもそれなりに安心したようだ。
朝日が眩しく輝き始めた頃、俺達は今度は4人で歩き始めた。
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五つの傷が癒えるまで~Kazuya's side-5~
振り返ると倒れ込んだ自分が見える。
見えるが、ちょっと待て。
『うわ、何やこれ』
思わず声に出てしまった。顔面は紫色だ。
喉元に自分の両手の爪が食い込んでいる。
信じられない程だらしなく伸びた舌。
口の端にまだ泡が見える。
『こんなん見つけた人それこそトラウマやろ、何とかならへんの』
触ろうにも自分の体に触れない。すり抜けてしまうのだ。
慌てる俺を横目に2人は相変わらずだった。
『俺もやったなあそういうの、川で自分見つけて引っ張ろうとしたりとか』
『そうなん?俺は病院やったからやらんかったけど、なんか不思議やったで自分が寝てる所見てんの』
『ちょっとこれ、ほんまこのまんまなん?どうしようもないん?』
『うん。ていうかトラウマって、誰かに見つけて貰うつもりでいるやん?』
『へ?』
『ここ滅多に人来いひんし、正直異臭騒ぎとか腐乱死体とか、なあ』
『まあこの気候やからな。割とあっという間に』
『やめてや、冗談やろ…』
『それに顔ばっかり見てショック受けてるけど、これっておもらし』
『言うなあああ』
『うわ、ほんまや』
『見るなあああ』
どうしようもなく無残な自分の抜け殻は、本当にどうしようもないようだった。
でもこれ本当にこのままでいいの?困惑する俺に2人は行く所があると言い出し、朝日が昇り始めた頃に3人で歩き始めた。
『朝焼け、たまに一緒に見たよなあ』
『あー、スタジオとかでな。朝までかかって』
『大っ変やったけど、楽しかったな』
『そうやな。レコーディング大変やけど楽しい、ぐらいまでが幸せやったな』
『やっぱそうかな。どこで躓いたんやろうな』
『みんなでしょうもない事しゃべるぐらいの余裕も、もうなくなってたからなあ』
『それも大きいかもな。空気感がなくなっていったというか』
生きている間にもっと話せていれば良かったな。
大事な話も、どうでもいい話も。勿論、できなかったのは自分のせい。
だけどそうする事でしか、お互いの気持ちなんて分かりようもない。
どこまで行くのか聞かされないまま夜まで歩き続け、今は街灯の少ない狭い坂道を上っている。
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五つの傷が癒えるまで~Kazuya's side-4~
シュウの葬儀の翌日、ユータは観客参加型ギタリストイベントに出演し、ライブは大盛況だったようだ。夜になり観客も帰り、本人も宿泊ホテルまで戻る準備をしていた所、ステージのすぐ下を流れる川の中程で動けなくなっている女性を発見したらしい。
普通ならスタッフや誰かが一緒に居るはずだが、その時は偶然周りに誰も居なかったらしく単独で救出に向かったユータは、1度はその女性と共に川岸まで泳ぎ着いたのだそうで。
ただそこからがもうよく分らないのだが、持参していたギターが流されてしまったその子の為にと、ユータはまた1人で川に入ったらしい。
折からの雨で増水していた川の流れに巻き込まれたのか、深みにでも嵌ってしまったのかはっきりした事は分らないが、とにかくユータが戻って来る事はなかったのだそうだ。
みんな後から聞いた話ばかりだが、鞄も靴も流されてしまった件の女性には連絡手段がなく、裸足のまま川沿いを歩き、テント泊組を見つけて助けを求め、ようやく捜索が始まっても明りの少ない山間部、全てが後手後手に回り、翌朝発見された時には随分下流まで流されてしまっていた。混乱を避ける為、当初イベント帰りの女性を助けてくれた親切な一般男性として報道されたその男こそ、俺達ジャンクの元ギタリスト、ユータだった。
その女性、一生トラウマじゃないか。
本当に何をやっているんだと、本人がいれば問い質したい所だ。
それさえもう無理なのだけれど。
またシートから薬を外して飲み込みながら、大昔、まだインディーズの頃にファンから言われた言葉を思い出していた。
カズヤさんは太陽で、ルートさんは月みたいね。
そう言われた時、思わず俺が太陽?と聞き返してしまった。
俺はどう考えても明るい人間ではない。爽やかとはほど遠い。
ルートが太陽じゃなくて?と言うと、太陽に見えてルートさんは月っぽいから、カズヤさんがしっかり照らして輝かせてあげないとね、と返された。
リハの合間にみんなに話すと、ルートはまんざらでもなさそうだった。
俺は月かー、ええんちゃう、でもタッツンが太陽なん?と笑っていた。
タッツン、とは名字が元になった、小学校時代からの俺の呼び名だ。
太陽って実際には濃縮された高温の気体の塊みたいなもんやし、内部の圧力なんか普通じゃないし、案外タッツンの熱さはそれっぽいでと、天体に詳しいキノが言う。
いかにもベースらしく思えて、俺はそれが気に入った。
なら、キノとユータは星みたいやな。
上の方でキラキラしてるみたいなな。
上モノの楽器やし丁度ええよな。
じゃシュウは?うーん、守護神。
俺だけ守護神なん?星とかないの?
ええやん、シュウちゃんは俺の守護神やし。
なんか恥ずかしいなあサッカーでけへんのにキーパーみたいやん。
照れくさそうなシュウ。顔を見合わせて微笑むキノとユータ。
ルートは楽しそうに笑っていた。俺がもっと自分を火の粉にするくらいの勢いでルートを照らせていたら、何か違っていただろうか。
ジャンクの為なら自分が燃えて灰になるくらい、何でもなかったはずなのに。
やっぱり俺の実力不足だったのだろうか。
人を照らせる程の力は、俺にはなかったんだろうか。
それじゃ何ができれば良かったんだろう。何が足りなかったんだろう。
ジャンクを続けられなくなったのも戻れなくなったのも、全部自分の身から出た錆。
よく分かっているのに、今になっても俺はまだ、同じ事ばかり考えてしまっている。
答えが出せない間に、守護神と星を失ってしまった。
俺が残っているのに、どうして先に2人が居なくなってしまったんだ。
どう考えてもおかしい、俺が先のはずだろう。
誰かが先に居なくなって自分が残るなんて、考えてもみなかった。
瓶から出した錠剤をまた幾つか飲み、急に何か変な感じがした。
何でだろう、気持ち悪い。全身から汗が噴き出す。
体中の血管がドクドクと破裂しそうにおかしな音を立てる。
しまった、薬を使い過ぎたのか?恐ろしい吐き気。
視界がガタガタと揺れる。頭が砕けそうに痛い。
心臓が狂ったように暴れる。息ができない。吐き出さないと―。
どれ位時間が経ったのか、ぼんやりと意識が戻ってくる。
屋上の端、鉄柵の前に薄暗い灯りに照らされたシュウとユータが見える。
いつもの2人の話し声が聞こえる。薬のせいでまだ呆けてるんだろうか。
まるで本当に、2人がそこに居るかのようだ。
シュウはユータが差し出した時計をのぞき込み、何か言っている。
ユータは俺の方を気にしながらも、シュウに答えて説明しているようだ。
起き上って近寄って行くと、ユータが困ったように手を振った。
『もう俺らの事、見えるやん?タッツン、何もこんな形でなくても良かったんやで』
『おかえり、ていうかいらっしゃい、ていうか。どうなんやろうな』
シュウも困った顔だ。何となく、分かってしまった。
俺ももう、生きてないんだな。